warajis’s diary

企業に勤めながら副業で起業するまでの日々で考えてることを綴ります

力点と作用点の距離

適切な課題を選ぶ能力

他の人がビジネスアイデア創出をする過程を傍から見ていると、当たり前ながらも非常に興味深いことに気付いた。つまるところそのアイデアで解決をしようとしている事象(課題)に対して自身がどういった距離にいるのかによって、解決策の質に雲泥の差が付くケースが多いということである。ここでいう距離のパターンとしては簡単に言うと、①当事者の場合、②当事者の近くにいる場合、③第三者視点の場合。第三者視点の場合でも、③'起きている事象を積極的に関心を寄せている場合、③''メディアなどを通じてなんとなく起きている事象を知っている場合、に更に区分される。

一方で、事象との距離が近すぎる場合は、そもそもどの事象が解決できる課題なのかを判別することが難しかったり、解決したい事象は単独ではなくだいたい複数存在するため優先順位付けが出来ないなどの弊害も見受けられる。なにより、事象に近い人ほど実際に解決するためのアクションを取る人ではないため、事象解決に対してアクションを取る力点と恩恵を受ける作用点とにどうしても隔たりが発生してしまう。そういった意味で、力学のモーメントとは逆では有りますが、力点と作用点の距離(物理的にではなく起きている事象の理解度)を出来るだけ狭めることで効用を最大化出来るのではと感じました。

紙一重の大きな差

後から振り返ってみて、その時の判断や行動が結果として必然的に見えても実際には結果論として正しく見える事は大いにあるように思える。

同じような事を同じタイミングで行おうとして、結局失敗に終わったサービスや企画は無数にあるだろうし。ほんの少しの差かもしれないけれど、少なくとも潰れずに良い方向に転がったことがきっかけで展望が開けていくことも多々ある事だろうなと。

ただまさにその場で物事が起きている際に、どうすれば好転する方向に結果を導けるかなんて、本当に紙一重の差なんだろうけれど、ここぞとばかり時にこそ勝負を張れることこそが大きな差を産むのだろう。

弛みのある張り

創造的だったり生産的だったりする人の話に共通するのは、アソビの中に閃きや新たな気付きが生まれることが多いということ。

忙しく時間に追われている時はどんなに集中状態にあったとしても、自分が想定する枠を大きく飛び出してしまうようなアイデアが生まれ難い。一方で、シャワーを浴びたりふとひと息ついた時にこそ、囚われていた枠を大きく越えられるチャンスがある。

スポーツでも身体が程よいリラックス状態で弛みがある時こそ良い結果でるような事を聞くが、意識的に敢えて弛みの状態に気持ちを作れる習慣づくりがとても大事なんだなと感じます。

情報中毒と断捨離2

手当たり次第に情報を取得して脳が疲弊状態に陥っている感覚に気付いた後に情報の断捨離を行いました。

具体的には下記の事を行いました
1:smartnewsやnewspicksなどキュレーションメディアのアプリを全て削除
2:Facebookで自分の知り合いが共有している場合に限り該当する記事だけ読む
3:興味がある事に関してだけ、自分から検索などで情報を取りに行く

キュレーションメディアはエンターテイメント性が強い一方で、基本はみんな同じコンテンツをひたすら浴び続ける。それは、四六時中ワイドショーが付けっ放しになっているのと同じ様な、わんこそばというか、自分にとって不必要な情報を無作為に取得し続けたことによる食傷感が有りました。

情報の取得経路を狭めたことで、逆に自分の興味がある事に対して自分から情報を取りに行ききちんと咀嚼しようとする余裕を作る事が出来ました。

情報も過ぎたるは及ばざるが如し。

情報中毒と断捨離 1

知らず知らずにスマホを使って情報を薄く広く集める事に対して完全に中毒になっている事に気付く。

キュレーションサービスやSNSから自分が関心ありそうな情報を手軽に、そして永遠に取得できるようになっています。新しい事が知りたいという欲は誰にでもあると思うので、知りたいという欲求といつでも情報にアクセス出来るスマホの掛け合わせで、情報取得の蟻地獄にはまってしまいました。

中毒の障害としては、幅広く情報を次から次に知る事が出来ることで知的好奇心を常に満たせていると感じる一方で、個別の情報に対して深く理解することが疎かになりがちになる。その結果、せっかく取得した情報も積み上がるのではなくバターを薄く延ばしたような薄っぺらいものでしかなく、ランダムに取得した情報を処理しようとする為か、脳が非常に疲労しているようにすら感じる。

とりあえずぶつけてみながら考える

一次情報を取りにいく

思いついたサービスのアイデアを洗練させていくのに手っ取り早いのは、取り敢えずでも良いのでまずは周りの人にそのアイデアをぶつけてみる。そのアイデアによって現存するサービスでは解決できていない課題を解決できるのか、という仮説検証を深めるためにも当然話をする相手は想定する対象ユーザーに近ければ近いほど良い。

サービスを他の人に伝えることの利点としては、想定するユーザーから直接アイデアに対してフィードバックを得られる事自体もそうであるが、話をする回数が増えるたびにアイデアの何が面白いかというコアの部分が、精米されるかのように研磨されてく気がする。

柳のように折れない心

大概の場合は、自分では面白いと思っていたアイデアでも他の人の反応は必ずしも芳しくない、もしくは同じような熱量を感じられないのではない。時にはネガティブな反応を示す場合もあるかと思うが、そこは真正面から受け止めるのではなく何故相手が期待していたような反応をしなかったかの要因分解が大事であろう。

過去に、対象ユーザー層としてはど真ん中の人に対してプロトタイプのデモを行ったがけんもほろろに突き返されたサービスが、実際にローンチしてみると業界を席巻するサービスとして成功したケースを見たことがある。

顕在化しているニーズに対して合わせるのではなく、一歩先もしくは一歩半先位にあるようなニーズを掴むのが良いと話をしている起業家がいた。アイデアに対する否定的なコメントの中にある潜在的なニーズを見出すことで、どういった価値を提供するのかを精査できる気がする。

突拍子も無いアイデアに執着を持つこと

最初に

思い立ったら何でも楽してみないと気が済まない性分である。それ故に、これって面白い切り口なのではと感じてしまった以上は、その感覚が正しいかどうかを確かめる為にはやってみるしかないと、ただし不退転の決意ではなく取れる今の時点で取れるリスクの範囲で。

イデア自体の価値

”これって自分しか思いついてない全く新しい革新的なアイデアだ”と世界中で毎日どれだけの人が同じようなアイデアに対して思っているのだろうか。ウェブメディアやSNSを介して人や国の境目なく情報収集ができるこのご時世で、誰もがこれまで考えたこともないようなアイデアを手に入れられたという感覚は、ほぼまぼろし。

だからこそ着想したアイデアを出来るだけ大きく振らしてみて、どうしたらもっと面白く出来るのか、なぜ自分が面白いと感じたのかを繰り返し反芻してみる。そうすると不思議とそのアイデアに対しての執着心が芽生えてくる。

そのファネルをこえてきたら、あとはそれが本当かどうか試してみるしか無いでしょ。